歴史・沿革1

浦賀沖に現れたペリー率いる四隻の艦隊を眺める江戸の庶民
浦賀沖に現れたペリー率いる四隻の艦隊
ペリー

  嘉永6(1853)年7月8日、ペリー率いる四隻の艦隊が浦賀沖に現れ、鎖国中だった江戸幕府に開国を求めました。「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで 夜も眠られず」と狂歌にも謳われたとおり、この出来事は幕府独裁であった当時の政治体制に打撃を与え、後の日本の近代化に大きく影響を及ぼすこととなりました。

  その約半年後、ペリーは二度目の来航を果たしますが、これには日米和親条約(神奈川条約)の調印という大きな目的がありました。当初、調印式がとりおこなわれる応接所は、浦賀あるいは下田に建設される予定でしが、両地域とも津波に襲われたことがあるため、その危険を回避するために、武蔵神奈川宿海岸に設置されました。
  江戸幕府の手によって建てられた応接所は、前年の7月、ペリー一行が久里浜に上陸した際に使われた施設を解体、再利用してわずか四日間で急造されたものでした。木造平家建て、間口八間、奥行四間の建物で、中央を談判会議室、両脇を日米両国の役人、警護者の休憩所とする造りでしたが、「外国人と談判をする場所であるからには西洋風に、白や青で塗りあげたい」と考えた当時の普請奉公・林大学頭は前代未聞のペンキ塗装への着手を断行します。江戸中の塗工職人を捜しまわった結果、村田安房守邸に出入りしていた渋塗職人に白羽の矢が立てられました。この職人こそが、当社の創業者で塗銀初代、町田辰五郎その人でした。

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