歴史・沿革2

  塗装といえば渋塗、漆塗が主流で、「ペンキ」という名前すら知られていなかったこの時代、初の試みにたいへん苦心した辰五郎ですが、研究に研究を重ねたのち、1月20 日ようやく工事に着手します。長男彌三郎や職人を引き連れて、横浜村の太田屋新田に建てた小屋に暮らし、そこから応接所の工事場に通うなど、まさに全身全霊をかけての取り組みでした。試行錯誤の結果、工事を終了させた辰五郎でしたが、そのできばえは自らの目から見てもあまりに稚拙で、西洋風のペンキ塗りとは比較にならない仕上がりでした。悩んだ末、幕府に出入りしていた通訳コスカルドの紹介でペリーの側近であるコンテエ氏に頼み、本牧沖に停泊していた米船アンダリア号へ出向いてペンキと油を入手します。さらに通訳ヰルリアムス(ウイリアムス)氏の指示を得て乗組みの職人からペンキ塗工の方法を学んで、再び塗装工事に臨んだのです。
  同年2月6日、工事は無事に完了、一ヶ月後の3月3日には日米和親条約が滞りなく調印されました。これがわが国における近代塗装請負業の始まりであり、当社の起源でした。
武蔵神奈川宿海岸付近に設置された日米和親条約(神奈川条約)の横浜応接所
 
  その後の安政6(1859)年8月10日、この努力が認められ、辰五郎は小普請奉行・遠山隼人正より日本で唯一人、各国公使館からペンキ材料を買入れることのできるペンキ塗元締の特権を与えられました。ペンキ材料の入手は、そのつど普請奉公から公使館へ請求書を提出し、横浜村運上所の免許を得てから公使館で買い入れるという手順を踏まなければならなかったことを考えると、辰五郎に与えられたペンキ塗元締の公許は、正に特例であったといえるでしょう。
  横浜応接所の塗装終了後、横浜の仮屋をそのままに江戸に戻っていた辰五郎も、これを機に江戸を引き払い、一家をあげて太田屋新田の仮屋に移り住みます。その後は幕府御用達の職人として、太田の陣屋、外人並移住商人貸渡用官舎、各国公使館などの塗装工事を一手に請け負い、みるみるうちに事業を拡張していきました。
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