歴史・沿革3

  当時の横浜では、外国使節、移住商人などのさまざまな建物に洋風建築が取り入れられるようになり、ペンキ塗装の仕事が増加していました。そのため、従来の渋屋からペンキ塗装業へ転向するものが多く、辰五郎も多くの弟子を養成したといわれています。さらにペンキ塗装と弟子たちの将来を考えた辰五郎は、ペンキ塗元締の特権を返上し、一般自由取引とするよう政府に働きかけました。これによって自由にペンキを入手することが可能になった弟子たちは東京、大阪、神戸など各地で同様に塗装業を営むようになり、のちに業界の重鎮として大いに活躍しました。
  明治6(1873)年2月、野毛浦(今の宮川町)に移り住んだ辰五郎は、英国病院、英一番館、亜米一・三・八番館などの塗装工事を手掛けました。
  また、辰五郎は、長女はる子を江戸赤坂丹後町出身の櫻井銀次郎に嫁がせて、自分の跡を銀次郎に襲わせました。
  以後、辰五郎と銀次郎のふたりが行った工事は、まさに文明開化の香り漂うものばかりです。横浜燈台をはじめとして、紀州潮岬、上穂犬吠岬、遠州御前崎、相州観音崎などの燈台、また横浜税関、裁判所、高島町玉川上水上屋、横浜本町町会所、永代橋日本銀行、番町英国公使館などの各官庁、そして東京丸の内鹿鳴館。開国と同時に、日本各地へ広まっていった西洋文化との接点には必ずといっていいほど、ふたりの姿があったはずです。
  大正から昭和にかけて、塗銀第三代櫻井銀次郎は、神奈川県ペンキ請負業組合長などを歴任し、昭和5(1930)年には全国塗装連合会において“塗工のさきがけ”として表彰を受けました。そして昭和26(1951)年4月、櫻井泰太郎が第四代として営業を継承します。
  昭和から平成にかけて、さらに歴史をくわえ、塗銀第五代櫻井富雄のもとますます成長を続けています。
浦賀沖に現れたペリー率いる四隻の艦隊を眺める江戸の庶民(武蔵神奈川宿海岸付近より)
浦賀沖に現れたペリー率いる四隻の艦隊