櫻井のあゆみ

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時は嘉永7(1854)年。日米和親条約(神奈川条約)を調印させるため、ペリーは二度目の来航を果たしました。調印式が執り行われる応接所が武蔵神奈川宿海岸に設置が決まったことを受けて「外国人と談判をする場所であるからには西洋風に、白や青で塗りあげたい」と考えた当時の普請奉公・林大学頭は前代未聞のペンキ塗装への着手を断行します。江戸中の塗工職人を捜しまわった結果、村田安房守邸に出入りしていた渋塗職人に白羽の矢が立てられました。この職人こそが、当社の創業者で塗銀初代、町田辰五郎その人でした。

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塗装といえば渋塗、漆塗が主流で、「ペンキ」という名前すら知られていなかったこの時代。初の試みにたいへん苦心した辰五郎ですが、研究に研究を重ねたのち、1月20日、工事に着手。長男彌三郎や職人を引き連れて、横浜村の太田屋新田に建てた小屋に暮らし、そこから応接所の工事場に通うなど、まさに全身全霊をかけての取り組みでした。試行錯誤の結果、工事を終了させた辰五郎でしたが、その出来栄えは自らの目から見てもあまりに稚拙で、西洋風のペンキ塗りとは比較にならない仕上がりでした。悩んだ末、幕府に出入りしていた通訳コスカルドの紹介でペリーの側近であるコンテエ氏に頼み、本牧沖に停泊していた米船アンダリア号へ出向いてペンキと油を入手します。さらに通訳ヰルリアムス(ウイリアムス)氏の指示を得て乗組みの職人からペンキ塗工の方法を学んで、再び塗装工事に臨んだのです。2月6日、工事は無事に完了。1カ月後の3月3日には日米和親条約が滞りなく調印されました。これがわが国における近代塗装請負業の始まりであり、弊社の起源でした。

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その後の安政6(1859)年8月10日、この努力が認められ、辰五郎は小普請奉行・遠山隼人正より日本で唯一人、各国公使館からペンキ材料を買入れることのできるペンキ塗元締の特権を与えられました。ペンキ材料の入手は、そのつど普請奉公から公使館へ請求書を提出し、横浜村運上所の免許を得てから公使館で買い入れるという手順を踏まなければならなかったことを考えると、辰五郎に与えられたペンキ塗元締の公許は、正に特例であったといえるでしょう。

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横浜応接所の塗装終了後、横浜の仮屋をそのままに江戸に戻っていた辰五郎も、これを機に江戸を引き払い、一家をあげて太田屋新田の仮屋に移り住みます。その後は幕府御用達の職人として、太田の陣屋、外人並移住商人貸渡用官舎、各国公使館などの塗装工事を一手に請け負い、みるみるうちに事業を拡張していきました。当時の横浜では、外国使節、移住商人などのさまざまな建物に洋風建築が取り入れられるようになり、ペンキ塗装の仕事は増えていきました。そのため、従来の渋屋からペンキ塗装業へ転向する人が多く、辰五郎も多くの弟子を養成したといわれています。さらにペンキ塗装と弟子たちの将来を考えた辰五郎は、ペンキ塗元締の特権を返上し、一般自由取引とするよう政府に働きかけました。これによって自由にペンキを入手することが可能になった弟子たちは東京、大阪、神戸など各地で同様に塗装業を営むようになり、のちに業界の重鎮として大いに活躍しました。

明治6(1873)年2月、野毛浦(今の宮川町)に移り住んだ辰五郎は、英国病院、英一番館、亜米一・三・八番館などの塗装工事を手掛けました。そんな辰五郎は、長女はる子を江戸赤坂丹後町出身の櫻井銀次郎に嫁がせて、自分の跡を銀次郎に襲わせました。以後、辰五郎と銀次郎のふたりが行った工事は、まさに文明開化の香り漂うものばかり。横浜燈台をはじめとして、紀州潮岬、上穂犬吠岬、遠州御前崎、相州観音崎などの燈台、また横浜税関、裁判所、高島町玉川上水上屋、横浜本町町会所、永代橋日本銀行、番町英国公使館などの各官庁、そして東京丸の内鹿鳴館。 開国と同時に、日本各地へ広まっていった西洋文化との接点には必ずといっていいほど、ふたりの姿があったはずです。

大正から昭和にかけて、塗銀第三代櫻井銀次郎は、神奈川県ペンキ請負業組合長などを歴任し、昭和5(1930)年には全国塗装連合会において”塗工のさきがけ”として表彰を受けました。昭和26(1951)年4月には櫻井泰太郎が第四代として事業を継承し、現在の代表である櫻井富雄は塗銀第五代となります。嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和、平成、そして令和と、多くの時代を歩んできた弊社。2024年には創業170周年を迎えますが、今後もますます成長を続けてまいります。